1947年の読売ジャイアンツ(1947ねんのよみうりジャイアンツ)では、1947年の読売ジャイアンツの動向をまとめる。
この年の読売ジャイアンツは、職業野球公式戦再開2年目のシーズンである。
概要
シーズン途中の6月23日、戦中・戦後の人員不足の時代にチームを支えた黒沢俊夫が腸チフスを発病し、急死した。球団は球団葬を行い、黒沢が付けていた背番号4は永久欠番になり、これと同時に1944年に太平洋戦争で戦死した沢村栄治の背番号14も永久欠番になった。チームは5月に最下位に転落すると、6月5日には選手兼任の中島監督が現役に戻り、チーム生え抜きの三原脩が監督に就任。三原新監督のもと、チーム成績を建て直すも優勝争いに加わることはできず、8チーム中5位でシーズンを終えた(優勝と阪神に22.5ゲーム差)。この年は6位の東急に12勝4敗1分、7位の太陽に12勝5敗と大きく勝ち越しも上位陣には歯が立たず、優勝の阪神に5勝12敗、3位の南海には6勝11敗と大きく負け越し、阪神の戦後初優勝のアシスト役になってしまった。
チーム成績
レギュラーシーズン
個人成績
主な投手成績
- 色付きは規定投球回数(180イニング)以上の選手
- 太字はリーグ最高
主な打撃成績
- 色付きは規定打席(330打数)以上の選手
- 太字はリーグ最高
できごと
選手・スタッフ
表彰選手
- 最多安打:川上哲治(137安打、6年ぶり3度目)
- ベストナイン:
- 川上哲治(一塁手、6年ぶり2度目)
- 千葉茂(二塁手、初受賞)
出典



