定襄郡(ていじょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の内モンゴル自治区フフホト市一帯に設置された。

概要

漢の高祖のとき、雲中郡を分割して、定襄郡が置かれた。定襄郡は并州に属し、成楽・桐過・都武・武進・襄陰・武皋・駱・安陶・武成・武要・定襄・復陸の12県を管轄した。王莽のとき、得降郡と改称された。

後漢が建てられると、定襄郡の称にもどされた。定襄郡は善無・桐過・武成・駱・中陵の5県を管轄した。

215年(後漢の建安20年)、曹操が雲中・定襄・五原・朔方の4郡を県と改め、4県を管轄する新興郡を立てた。

晋の恵帝のとき、新興郡は晋昌郡と改称された。304年(永興元年)、劉淵が漢王を称して自立すると、并州全域を漢(後の前趙)が掌握した。劉曜が都を長安に移すと、平陽以東の地は石勒に掌握され、朔方に朔州が置かれた。

585年(隋の開皇5年)、雲州総管府が置かれた。605年(大業元年)、総管府が廃止された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、雲州は定襄郡と改称された。大利1県を管轄した。

621年(武徳4年)、唐が劉武周を平定すると、定襄郡は廃止され、朔州に編入された。いっぽう隋の楼煩郡秀容県を前身とする忻州があり、この忻州が742年(天宝元年)に定襄郡と改称された。758年(乾元元年)、定襄郡は忻州と改称され、定襄郡の呼称は姿を消した。

脚注


唐朝定襄,突厥,大唐_大山谷图库

1:呼和浩特和林格尔土城子古城遗址 知乎

山西省定襄县在历史上叫什么 业百科

《汉武风云》尚未建设完成的定襄郡城(已改为上郡) 知乎

定襄古八景,定襄八景诗文,偏关古八景_大山谷图库